
罪とが悔める心こそ主よりの賜物(士師記 20章)
イスラエルの人々は皆、…主の御前に座り込んで泣いた。その日、彼らは夕方まで断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を主の御前にささげた。 (士師記20章26節) 側女をベニヤミン族に殺されたレビ人は、自分たちが一方的にやられたとうそをつき(5節)、イスラエルをベニヤミン族との全面戦争に突き進ませ、何万人もの犠牲者が出てしまった。それがこの章のあらすじです。この章から信仰的に得ることなどあるのかとすら思えます。 ただ途中には、イスラエルが主の前で悔い改めの儀式を行ったとあります。自分たちがベニヤミン族より優位に立ち、楽々勝利できると過信したために敗れてしまったと、イスラエルは悔いたのです。続く神への問いかけで、過去二回(18、23節)と異なり、戦いを「控えるべきでしょうか」との言葉が加わった(28節)ところに、彼らが打ち砕かれ、自らへの過信を捨てたことが現れています。 その後も戦闘が続いてしまったことには、今日の私たちは複雑な思いにならざるを得ません。しかし、自分こそ正しい、力があると過信するばかりだったところから、主を認め、悔い改めるよう変わること自体は、人間の努力では起こらないこと、主が与えてくださることです。どれほど世界が荒れ果てようと、「石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタ3章9節)主は働いてくださる、そのような希望が私たちにも示されるのです。…
The skinny
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